ART CRITIC / CRITICAL ART #54 

たらすぱ公演  「七千の夢 −スノードームの街−」
 たらすぱは女性だけの劇団だ。それも二十歳前後の若い女性ばかりが集まった特殊な共同体である。当然ながら批評に際しては、「女性の」とか「女性的な」といった語句がつきまとうだろうし、色眼鏡で見られることは避けられないだろう。私もそうした観点から論ずる。  女性ばかりの劇団といえば、すぐさま宝塚歌劇団が頭にうかぶが、宝塚は演出や脚本など、俳優以外の創作現場には男性のスタッフがいるので、たらすぱに近い形態を持った集団は「青い鳥」くらいのものだろうか。
 演劇創作を女性だけで行うことには、いかなる意義があるのだろう。狂心的なラジカルフェミニストたちが、彼女らの共同体から一切の男性を排除したように、たらすぱの共同体形式も、なんらかの理念の元に積極的に選びとられたのであろうか。

 だが、今回の公演に三名の男優を客演させているところを見ると、たらすぱの「女性だけ」の共同体形式には何の根拠もないようだ。劇団が男女の混在で構成される通常の共同体であれば、その内部で自然と発生してくる恋愛であるとか、性的欲望の発現であるとか、そうした男女間のごく日常的な感情風景、関係を回避しているのだと推測されるのである。要するに彼女たちが精神的に幼稚だというだけのことなのだろう。
 わずらわしい関係性を拒絶する傾向を持つ集団が創りだす舞台には、これまた関係性が存在しない。軋轢や葛藤がないのである。いたるところに「関係モドキ」がぶちまけられているだけだ。たしかにイメージをかきたてるような詩的記号が、全編にちりばめられてはいる。個別に見てゆけば、魅力的なマテリアルは認められる。しかし、それらをひとつにつなぎとめる決定的な力学、換言するならば物語の中心、が欠落しているのだ。観客である私たちは、舞台に無責任に放り出され散乱する記号群を、私たち自身の創造力で紡いでゆかなければならない。こうしたたらすぱの創作姿勢は、あまりにも傲慢というものではないか。

 具体的に検証してみる。物語は眠りの街を主舞台に展開する。そこは自閉した登場人物たちの夢の世界であり、時間の流れから置き去りにされた、記憶のゴミ捨て場のような空間でもある。あるいは生と死の中間の、薄明の領域であるかもしれない。小劇場演劇によくありがちな、現実の日常的リアリズムから逃避したようなファンタジーだ。登場人物の設定にしてもしかり。ストーリーの結末にいたれぬ漫画家、言葉を話す猫の三兄弟、謎の少女を捜す(どうして少女を捜しているのか、そのこと自体が謎の)少年、黒眼鏡の亡命者、歌うオルゴール人形・・・・。様々な「それらしき」キャラクターが登場する。
 眠りの街とは別の物語も進行している。それは二人の天使(「天使」は小劇場演劇では定番かつ必携のアイテムだ)の世界の物語である。そこには壁があり、壁は彼岸と此岸を断絶する。なんとも古典的な二元論だ。私たちの世界を分離する壁、境界線が、この二十世紀の終わりにいまだに存在していると無批判に受け入れているとは・・・・。素朴な世界観をイノセンスと呼ぶのは甘やかしすぎというものだろう。
 それはさておき、終幕、壁は天使たちによって破壊され、分離された世界観を通底する回路が誕生する。眠りの街では、少年が大切にしていたスノードームを割る。街に雪が降りだし、停止した時間は再び流れ出す。スノードームに雪が降り、眠りの街に雪が降る。お決まりの「入れ子構造」。ここでセンチメンタルな音楽がドドンと流れれば、小劇場演劇お得意の意味ありげなエンディングは完成である。
 だが、舞台演出の視覚的効果も充分用意されていたにもかかわらず、作劇上で予定されていたカタルシスは、ここにはない。壁の破壊は「向こう側」への突破であり、官能性にみちたものであるはずなのに、何故、劇的感動がないのだろうか。

 一人よがりの世界に自閉している者たちには、関係が分断されていようが、もとより関係を成立させる意志がないのだから、そこにカタルシスへといたる物語(分離されていたものたちの統一、あるいは回復治癒の、あるいは復活の物語、あるいは・・・・)が現れるはずがないのだ。もうひとつ、決定的な理由があるのだが、それは後にまわす。

 ところで、詩的イメージを喚起させる言語記号に対するたらすぱのセンスは、悪くない。故意か偶然か、センスは記号間の自動的結合を可能にさせている。前述したように、劇世界に過剰な記号が投入されているため、観客は自発的に物語を読みとってしまうという倒錯が起きるのである。
 劇の冒頭、少年が乗り込む行き先の判らぬ列車は記憶と忘却のはざまを進む。黒マントの乗客がギターを奏でれば、テキストに内在する宮澤賢治をみることも可能だ。いくつかの場面では、私はP・K・ディックの作品を連想した。

 あっさりと、突然、死んでゆく登場人物たち。私たちもまた、簡単に死んでゆくのである。誰かが言っていたように、私たちは二度の死を迎える。最初は肉体の消滅によって。二度目は、人々の記憶から忘れ去られることによって。

 仕掛の凝ったプロットもあり、ディティールのこだわりにも見るべきものがある。ところが、劇が進むにつれ、このテキストの背後には別の物語が潜在しているようだ、ということが推察される。そして、それはどうやら、たらすぱが過去に上演した物語が関係しているらしいのだ。やれやれ、またしても自己完結か。それではこの舞台は、より大きな物語の予告編、もしくはダイジェスト版なのだろうか。
 知りようのない物語と細部の情報を、私たちは推理する。箱の中に何が入っているのか、私たちは懸命に考える。実は何も入っていないのかもしれない。それでも私たちは考える。

 たらすぱは、あるがままの身体=日常性を容認しながらも、「ワタシタチハ封印サレタ何者カナノダ」という甘美な幻想に支配されている。このような心性は、自己の内に天才を妄想し、面白味のない訓練に背を向けることになる。
 その証左はたらすぱの俳優たちの演技術に見てとれる。俳優の演技には、新劇的な、いわゆる大げさな・わざとらしい・つくりものじみた所作は存在しない。等身大の演技はテレビ・映画のタレントの演技と変わらない。身体訓練の欠落。もちろん俳優の演技に必ずしも身体訓練が必要だとは限らない。むしろ訓練をすべきではない演技術もありえるだろう。たらすぱが、「身体訓練をしてはならない演技」を意図的に選び取っているのならば、それはそれで構わない。しかし身体表現にもテクニックがある以上、その技術を習得するための訓練が不可欠な演技は確実にある。たとえば歌唱だ。劇中歌が数曲挿入されているが、それを歌う俳優の歌唱力は、明らかに低いと言わざるをえない。基礎的な訓練の欠如が明示されている。(だが、私には本当のところは判らないのだ。演者が稚拙なために声が聞こえない、声量がないのか、それとも故意に聞き取れぬように歌っているのか。)

 ただ、らせん劇場から客演している男優、キリシマの演技だけは明らかに傾向が異なり、異彩をはなっている。良くも悪くもキリシマには自前の(特殊な)演技術がある。それはキリシマだけに許された、特権的な演技だ。私はキリシマの演技術には否定的な見解を持つものだが、少なくともキリシマにはオリジナリティーがあり、その独自性ゆえに、キリシマはサブカルチャーを体現する「小劇場俳優」というレッテルを背負うことになったのだと考えている。
 たらすぱの俳優たちはキリシマの演技に拮坑することができない。それならば何故、たらすぱはキリシマを客演者に迎えたのだろうか。
 キリシマが見せる表現世界は、たらすぱの演劇的成果とはなんの関わりもなく、キリシマはキリシマであり続ける。キリシマの他の俳優に関係性を求めぬ演技術を、たらすぱが歓迎したということか。

 実のところ、たらすぱの致命的な失態はテキストでも演技術でもない。それは舞台と客席の間に突っ立つ、二本の無粋な二酸化炭素ボンベなのだ。私の視界にいやおうなく介入する、この興ざめな物体は何なのか。白を基調にした舞台美術の出来に比し、あまりにもおそまつ。  二酸化炭素はラストシーンで使われた。自閉した世界に亀裂が入るカタストロフとともに噴出する、白いスモーク。これが射精のメタファーであると、彼女たちたらすぱは了解しているだろうか。もちろんその象徴性・意味性ゆえ、スモークの噴出は、カタルシスあるいはエクスタシーをはらんだ場面の効果にふさわしいのである。
 しかし、一瞬の効果のために、私たち観客が最初から最後まで、この二本の勃起した男根を見せつけられるいわれはない。たらすぱは観客の舞台への集中力を損ない、舞台空間の視覚的構成を破壊する代償を支払ってまでも、スモークを使いたかったのだろうか。そうではない、ということが私にはやりきれない。たらすぱは観客席からの視点を持ちえなかったのだ。いかに見られているのか、その自覚に決定的に欠けていたのである。

 自閉するのはいいとしても、たらすぱが演劇という表現形式を選ぶ限り、現実世界の監視装置の走査を免れることは不可能だ。電子ネット上でならば、自閉しつつ開くというような器用な真似もできよう。女性を装うネットおかま、若い時分の画像を流し続ける老女。アイデンティティの改変や虚構化は、それが視られるのか/視られないのか判らないリスクを表現者側が背負うことで成立する。それは言わば誰もいない虚空へ向けられた表現形式なのだ。しかし、舞台上の表現者の前には私たちが確実に存在する。そこに観客がいる以上、演劇はミソだろうとクソだろうと、疑いなく「表現」として認知されるのである。私たち観客は演劇表現の保険であり、共働者だ。ところが関係性を回避するたらすぱは、視る/視られるという客席と舞台の関係性すら排除している。観客を当然のように担保としてとりながら、舞台にそそぐ観客の視線に対し、無自覚で不感症であるが故に、私は「傲慢」と評したのである。

 女性たちの閉塞した演劇空間は、二本の屹立した男根によって侵犯され、破壊された。スノードームのゆがんだ風景が永遠にガラスの向こうにあるように、白い雪の降る舞台と私たちは決してつながってはいない。


 それにしても不可解なのは、レイプされたに等しいこの状況が、たらすぱには本当に理解されていないのだろうか。あるいは彼女たちの永遠の少女であり続けたいというくったくのない欲望は、現前する事象を黙殺したのか。いずれにしても、哲学を欠いた理念なき劇世界では、私たちの変転する非情な現実世界にはなんの影響ももたらすことはできまい。そして演劇表現は世界を変革させる魔術であってほしいと願っているのは、舞台上のたらすぱではなく、観客席の私だということが無残である。

関連テクスト たらすぱ公演 「天使とBUSU」

たらすぱ公演『七千の夢 −スノードームの街−』は、静岡県の助成を受けて
1996年9月21・22日、静岡・サールナートホールで上演された。
作・演出、大石明世。前売り1000円、当日1300円。

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