ART CRITIC / CRITICAL ART #133

たらすぱ公演  「天使とBUSU」
 9月27日、静岡市沓谷の「生活文化実験室」でたらすぱの公演を観た。
 これは芸能界を舞台にした、女の子四人の仲良しグループの友情物語である。

 のっけからとほほと腰くだけであった。稚拙なのだ、何もかも。稚拙なダンス、稚拙な歌唱、稚拙な演技。なにもかもが純粋素人。しかも、なんだよこいつらは、ばっかでえ、笑っちゃうね、ト笑えない。どうにも重いのである。これも演劇であると考えなければならないのは非常に辛い。かくも貧しい演劇を見せられるのはとことん切ない。

 この劇の中では、紋切り型の青春ドラマや恋愛ドラマが、クサイ芝居として揶揄されている。笑い物にされている。しかし、たらすぱの「天使とBUSU」という物語そのものが、まぎれもなく「紋切り型」なのである。判ってやってるのか? 自嘲してるってことか?
 過剰なほど頻繁な暗転。なんでここで暗くなるの? しばらく戸惑ってしまったが、そのうち、この暗転には一定の法則があることに気づいた。
 どうやらこの暗転は、テレビや映画の映像での、ロングショットからクローズアップへの切り換わり、あるいはその逆なのである。「景」がずたずたに切断されて奇異な印象を受けはするが、これはこれでたらすぱの演劇的文法として成立しているのではないかと無理矢理思うことにした。
 いや、ただそれだけなんだけど。

 「BUSU」というのは「ブス」の事なんだろうな。美しくない女。身も蓋もなく、そのまんま、「醜い女」の意味なのだろう。
 つまりここに登場している女の子たちが「ブス」って事? それともたらすぱの女の子たちが「ブス」ってこと? うーん、どうにも重い。
 「精一杯のわたしたちをみてください、こんなにブスだけど、わたしたち輝いちゃってます」。えー、それってメッセージになってんですか?
 女の子たちっていつもこんなことばっかり考えてんのかな? 「あの子は天使だけど、この子ってブスだよね」。
 けれども中途で思いなおした。なにしろここにはいまどき流行の〈癒し〉の気配が濃厚にあるのだ。

 ぼくにはこんな風に感じられた。
 「ブスの国では、ブスはブスではない」。
 差異の拒絶、他者と向き合うことからの逃走。で、飛躍するけど、「排他的〈癒し〉の共同体」ってものを想定してみた。これがこの演劇集団の独自性。
 この共同体を維持することは、彼女たちにとってそれほど切実なことなのだろうか。
ぼくには判らない。でも判らないってことは、きっとぼくは排除されているのだ、この場所では。
 一観客としてさびしい限りですね。

 共鳴できない最大の理由は、彼女たちが本当には「わたしはブスです」とは思っていないってこと。これに尽きる。

関連テクスト たらすぱ公演 「七千の夢 −スノードームの街−」

たらすぱ公演  「天使とBUSU」は、
1997年9月27日、静岡・生活文化実験室で上演された。


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