ART CRITIC / CRITICAL ART #326 

SPAC 公演  「ディオニュソス」


11月13日、静岡芸術劇場で『ディオニュソス』を観た。
購入した当日券は上手側のバルコニー席。まさに高見の見物。
劇場の暗闇が浅い。鈴木忠志の舞台はこんなに明るかっただろうか。舞台袖が妙にしらじらとしている。舞台が観客席と地続きのようで、異界性が全く感じられない。 観劇する位置の問題なのか。

あれれ、こりゃヤバイかな、と思った。
今回の『ディオニュソス』、すこぶる面白いのだ。それもハイカルチャー(高踏的)な面白さではない。通俗的な、大衆文化の面白さ、笑いのとれる芝居だったのである。
実は二年前、静岡県舞台芸術センターのオープニングの時、SCOTによって上演された『ディオニュソス』を観ている(当時書いた観劇記では「神性」という軸を提示したが、今回は「神」については一切言及しないことにする)。
野外と屋外の違いは当然としても、演出的にはあの時と何が違うのだろう?
ひょっとして俺が変わっちゃったのか?

舞台の幕が上がり(SPACの上演は緞帳なしで行われるのでこれは比喩)いきなり異形に当惑する。俳優は皆、東洋的な、日本の中世の正装のようないでたちで登場する。
えーっ、なんでー、これってギリシア悲劇じゃなかったのー、なんで着物きてんのー?
更に演技。テレビや映画で日常的に目にするものとは全く違うため、またしても距離感が生じる。苛立ち。「異化効果」発動!

「異化効果」にとまどっている間は、芸術の権威が機能する。観客は考えさせられるのだ。これを(ギリシア悲劇)として受け入れてよいものかどうかためらいがある。受容保留。反応停止。
終演まで課題が解決しなければ、観客はロビーでため息をつく。うーん、難しかった。やっぱり芸術だねえ。
けれども、ひとたびこれを了解すれば、つまりこれ(鈴木忠志作品)はこういう形式(鈴木忠志スタイル)で、こういうもの(鈴木忠志演出)なのだと無心に呑み込んでしまえば、事態は一変する。SPACの俳優たちの、むやみに力が入ったような台詞回し。ぎゃはは、変なのお、おっもしれえ、と笑うことができるようになるのである。

ディオニュソスの信徒がテーバイの王ペンテウスに向かって、「あなたはご自分が何者なのか判っていらっしゃらない。ペントスとは悲しみの意、あなたは必ずや不幸になりますぞおお(※引用不正確、大意)」と叫ぶ。重い。しかし、うぷぷ、そのオオギョウさがB級オカルト映画みたいでおっかしい。
「あなたの背中に悪霊がああ!」とか「この家は呪われておるう!」とか。

そして王が信徒たちのそそのかしにまんまとひっかかり、信女たちの狂態(?)を覗きたいというスケベ心につき動かされてゆくくだりでは、何度も笑ってしまった。
ペンテウス、一介のオヤジと化す。あーあ、あんな口車にのせられちゃって。
ところがこの場面が滑稽であればあるほど、その直後の惨劇が生きてくる。衝撃。「よく判らない異形」であった信徒たちが「よく判る異様」となる薄気味の悪さ。
エレン・ローレンのクライマックスもよかった。舞台稽古を観たので、手口は判っている。くるぞくるぞ、さあ、ここんとこでキメるぞ、と準備して観ていたが、意外にもマジで戦慄してしまった。うわー、やってくれるなー、いいなー、と。
紋切り型がこれほどサマになるとは。やはりこれは歌舞伎なのだ。すべてが決められ事、すべてが型にはまってる。だがそれが完璧にキマった時、カタルシスが発生する。
ただし、エレン・ローレンの発汗はどうにかならないものか。暑苦しいことおびただしい。

しかし。しかし。しかし。依然として問題は解決していない。
『ディオニュソス』は本当に面白い芝居なのか。
逆説的に面白いなどというのは卑屈な観劇態度なのではないか。あるいは観劇巧者をきどるスノッブ。モナリザにヒゲを描いて喜んでいるようなものか。
全然違う?

客席の暗闇で考え込むことをやめてしまった俺は、果して堕落したのか。
SPAC公演『ディオニュソス』は、
1999年11月、静岡・静岡芸術劇場で上演された。

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