ART CRITIC / CRITICAL ART #328
鈴木忠志の演劇はずいぶん以前から観てきた(20年以上も)。特にSPACの舞台は、創設以来「しんしゃく源氏物語」「悲しい酒」以外は全て観た。
失望したことはないが、面白いと思ったこともない。
楽しくない。
以前、『ディオニュソス』が面白かったと書いたことがあるが、それはあくまでもいくつかの手続きを踏んだ上での感想。無条件に観劇を楽しんだわけではない。
しかしそれが芸術というものだから別段文句はない。あの演劇は面白い、この演劇は面白くない、といったディスコースは演劇については何も語っていないに等しい。楽しむばかりが演劇の魅力ではありません、さあ、演劇を観て苦しみなさい。演出家がそこまで言うかどうかは判らぬが。
ところが『シラノ・ド・ベルジュラック』は違った。めっぽう面白かったのである。舞台芸術だのアーツだのといったしゃらくさい表現ではなく、直球の芝居を観たという、すこぶる充実した手応えがあった。
主人公のシラノを演じる竹森陽一が圧倒的にいい。オーラを感じる。あの時代というか、ぼくが芝居を観始めた頃、こういう熱気を持った役者が大勢いた。芝居者の魂魄があるぞ、竹森陽一。
でもビジュアル的には「磯野波平」なんだよね。似てるよ。絶対似てる。登場する男たちの中で、この人だけはヒゲをはやしていない(つまり女形なのか、なんてことも思ったりしましたよ、ええ)。にもかかわらず、つけ鼻(パーティーグッズの定番、鼻眼鏡?)の下にちょびヒゲが視える。
オーラだ。
一方こちらロクサーヌは本物の女形。その口調と声質が、ぼくが知っているニューハーフ(死語?)のおねえさんにそっくり。うぷぷぷ。
例のごとく様式はへんてこりん。ことごとく。歌舞伎モドキの舞台装置。着物姿のフランス人騎士たち。えー? 時代劇? 『お江戸でござる』ですかー? しかしイタリア歌曲がガンガン響く。ごっちゃまぜ。
まさかこれ、江戸者・物(えどもん)とエドモン伯をひっかけた洒落じゃないでしょうな? なーんてね、エドモン伯は「シラノ」じゃなくて「厳窟王」でした。まてよ、ああっ、「シラノ」の原作者、エドモン・ロスタンじゃないか! うぬぬ、やっぱり駄洒落作戦か?
しかし妙だな、竹森陽一の好演。鈴木忠志の演劇はこんな風に俳優の特権性が前面に出てくるものではなかったはずなのに。これまでの他の作品と、どこがどう違うのだろうか。
この感じ、前にもこんな感じがあったよなー。そこで思い当たったのが『蝶々夫人』。異文化の眼から見た日本文化。
『シラノとサムライたち』という演劇書が白水社から出ている。著者の塩谷敬は略歴によれば「1944年静岡生」。もしかしたら鈴木忠志とも交遊があるのかも知れない。
クロード・レヴィ=ストロース(あの文化人類学者と同一人物?)が書いたこの本の序文には、次のような一節がある。
エドモン・ロスタンは、一八九七年に歌舞伎そのものといえる『シラノ・ド・ベルジュラック』を上演させた時、日本演劇を知っていなかった。
『シラノ・ド・ベルジュラック』が歌舞伎そのもの? フランス人がそう思っているの?
ああ、そうか、そういうことか、『シラノ・ド・ベルジュラック』は最初から歌舞伎だったんだ。だから舞台を江戸に転位させるという鈴木忠志演出のこの意匠は、『シラノ・ド・ベルジュラック』の内容物をいささかも「異化」するものではなかったわけだ。むしろ『シラノ・ド・ベルジュラック』の深層にある本体に、もっともふさわしい形式が与えられたんだな。
その結果、形式と内容との衝突が起こらず、構造的に安定した演劇の上に俳優の個的な力が浮上してきたってことだ。皮肉にも。
レヴィ=ストロースはこうも書いている。
異質な文化が出会う時、手本が交換されるのではなくて、たがいに揺すりあって危機を生じさせ、その危機のうちにそれぞれが自己の源泉から革新の手段を引きだすように促しあう。
これってまさに鈴木忠志演出の方法論。今回はあてがはずれた。『シラノ・ド・ベルジュラック』は異質な文化ではなかった。
ラストシーンの雪もいい。降りしきる雪の中の竹森の立ち姿。よっ日本一、と胸の内で掛け声。カーテンコールはなんと4回ものアンコール。観客はよく判っている。今日の舞台の出来、実際良かった。
うーん、楽しんだよ、マジで。
SPAC公演『シラノ・ド・ベルジュラック』は、
1999年11月、静岡・静岡芸術劇場で上演された。
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