シアター・オリンピックス観劇記 #15 Ayame−鈴木大治


振付:ダニエル・デノワイエ カレ・デ・ロンブ 『ディスコルダンシア』
グランシップ中ホール 5月23日



 かっこいいよなー、ダンサーのおねーちゃんたち、嫌になっちゃうくらい美人だよなー。とシアター・オリンピックス観劇記、ガロッタの『いうならばドン・キホーテ』評と同じ書き出しで始めたのには、ちゃんと訳がある。
 最初、構成や演出がガロッタに似ているなー、と思ったのだ。6人のダンサーのキャラのたてかたが、とてもよく似ていると。モダンダンスというのは概して「キャラたて」の傾向があるのだろうか。
 以前、うにたさんが「珍しいキノコ舞踊団」や「H・アール・カオス」なんかがいいですよ、と薦めてくれたことがあったけれど、わざわざそれを観に東京へ出かけるのも難儀だ。ピナ・バウシュは観てみたいけれど、埼玉まで出かけるのもこれまた難儀。
結局ぼくの貧しいダンス鑑賞歴が露呈するだけか? ト、なごんでいたのはわずか数分。

 ああ、なんということだ。こりゃスゲエ。ショックだ。戦慄した。鳥肌が立った。音楽も最高だ。こんな衝撃はガロッタの『かわったDr.ラビュス』を観て以来だ。でも全然違うぞ、ガロッタとは。
 『ディスコルダンシア』、その冷ややかさは壮絶でさえある。身体運動がどれほど激しくなろうと、全く温度が上がってゆかない。叙情が根こそぎ排除されてしまっているのである。これは叙情まみれのガロッタの対極にあるダンスだ。このグループの創作は、「物語が尽きた地点」から開始されているのだと了解した。

 この舞台からリンクされる印象を思いつくままに列記してみる。デビッド・クローネンバーグの映画、特に『クラッシュ』。『ブレードランナー』を頂点とするリドリー・スコットの映像。デビッド・リンチが舞台演出した『インダストリアル・シンフォニー』。それから『エイリアン4』(!)。
うーん、結局好きなものばかり。こんな感じ。って判るかな?

 よし、もう一度、始めから。
 緞帳が降りている。なにか奇妙な気がする。ぼくは緞帳が下がった状態から始まるダンスを、これまでに観たことがなかったから。
 幕が上がると、舞台中央に弧形の巨大な金属の壁。その衝立が中空に浮き上がり、ダンスが始まる。三人の女性ダンサーが前列。背後に三人の男性ダンサー。女性ダンサーを男性振付師(ダンサー)が振付してゆくという設定で幕開け。
 ところがである、女性だとばかり思っていた三人のダンサーの一人が実は男性で、男性だと思っていた三人のダンサーに、女性が一人交じっていると気づいたとき、ぼくの意識の何かが破壊された(更に終演後、女性だと思っていた男性ダンサーが実はやはり女性であったと判り、もう再起不能…)。男女の性差への再考が、いやおうなしに要請されてしまったのである。
 それからダンサーたちは、かわるがわるソロを踊る。他のダンサーたちは踊り手を取り囲んで、周りの椅子に座り、ソロダンスを眺めている。ダンスのワークショップを見ているよう。いま・そこでダンスが生成されているような、創造性あふれる緊張感がある。そこに二人目のダンサーが加わり、そしてパートナーは入れ替わり、立ち替わり。
 冷ややかなエロス。「いうなれば」インモラルな。この感じはどこから来るのか。おそらくこれは舞台上の表現において、性の境界線が徹底破壊されているためだ。しかもそのぶっ壊され方が尋常ではない。ジェンダーからの離脱。セクシュアリティの消滅。完全に性の役割が打倒されている。だからこのダンスはどこかしら倒錯的であったり、フェティッシュであったりするのだ。「いうなれば」ポストエイズ・ダンス。
 氷柱のようなロシアの現代音楽がハマリだったし、メタリックなライトデザインも良かった。ホリゾントに浮かぶ光線を視て、あっバーネット・ニューマンだ、と思った。

 物語の廃墟から、それでもなお立ち上がってくるものがある。『ディスコルダンシア』は、その「全く新しいナニカ」の気配に満ちている。絶望のさなかで叙情を超克するとき、崇高へ至る道が開けるのだと確信した。当然ながら、メガ・レコメンド。
 くっ、今回、全然説明出来てないや。批評になっとらん。これでは『ディスコルダンシア』の素晴らしさは伝わりそうもないな。口惜しい。


ついでながら、終演後の「トーク&セッション」というイベントに姿をみせたダニエル・デノワイエは、べらぼうに素敵な女性だった。メンバーもすごく仲が良さそうで、家族のよう。いいな、ポストエイズ時代の共同体。




今日の御挨拶  渡辺信幸さん(ミュージシャンその他)/御宿至さん(彫刻家)


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